北炭 幌内炭鉱


 昭和29年4月 北海道炭坑汽船株式会社に入社
 入社式は東京の本社(三井ビル)で行われました。同期入社は11名で、その内秋田大学の卒業生は3名(鉱山学科から2名、電気科から私1名)でした.昼食は生まれてはじめてのフルコースでした。この時代、多くの日本人は漸く白いご飯を食べられるようになったばかりで、外食で洋食などは考えられない時代でしたので感激をしながらご馳走になりました。その晩の夜行列車で北海道内のそれぞれの赴任地に向かいました。私は三笠市にある幌内鉱業所唐松幌内炭坑でした。国鉄幾春別線唐松駅で居り、秋田からチッキで送った布団袋をかついで合宿所(社員寮)に到着、迎えてくれたのは秋田大学の先輩深井哲さんでした。仕事は電気係で、坑内外の電気設備の設置や保守に関するものでした。 現場の電工さんには教わることばかりでした。戦後10年を経ていましたが絶縁材料の材質がまだ粗悪で、電気機器はよく故障していました。電動機の巻き線の接地事故もときどきありました。そんなとき電工さんは電動機の外カバーを外し、 コイル抜き という作業をしました。大学では電気機械の種類、構造、原理を門脇又男先生から教わりましたが、 コイル抜き などという言葉も意味も解りませんでした。電動機の固定子の鉄心の溝の中にきっちり収めて巻かれているコイルを、どのような方法で抜くのかと不思議だったのですが、実際は外カバーを外したときに、露出している巻き線の端を切断して接地故障した巻き線を検出し、その巻き線を飛ばしてその巻き線の前後を接続し直しするという作業でした。電気機器の修理を通して学んだ多くの実践経験は、私の人生にとって大きな宝になりました。合宿での食事はご飯こそ腹一杯食べられたものの、お昼の弁当のおかずはきまって塩ほっけの焼いたもので、かなり臭いが強く、私が今でもほっけを食べない理由になっています。夕飯には週に数回大きなステーキが出るのですが、これはこれまで食べたことのない馬肉だったので、最初はなかなか手を付けることができませんでした。秋田での私の育った環境では、馬は荷役をして貰う大切な家畜なので、馬肉を食べるという習慣はなかったのです。私は白いご飯にマーガリンと醤油をかけて食べて居りました。炭鉱の坑内作業を指導するために必要な国家試験を受験し、昭和30年12月5日に 甲種上級保安技術職員国家試験合格証 を頂きました。この資格は採炭、保安、機械、電気と坑内の仕事は何でも担当できる資格で、発破係員にもなれるものでした。
 遠く故郷を離れてきたという寂しさから、盆と正月休みに帰郷するのが楽しみでした。帰郷の際列車が土崎駅を出て外旭川地区を走る車窓からは、林立する八橋油田の石油採掘の櫓が見え、目頭が熱くなったものでした。この時代、日本の産業で使われたエネルギー源は石炭でしたが、この10年後、その座を石油に譲ることになるとは思っていませんでした。
 八橋油田は平成23年の現在も稼働しております。 この映像は 平成18年のものです。
(Oct. 19,2011 成田裕一