北炭 万字炭鉱


 昭和31年4月、同社の万字炭坑に転勤を命ぜられ、昭和35年6月の退職の日まで三交代勤務で坑内外の電気設備の設置や保守の仕事をしました。三交代勤務とは、朝7時から15時までが一番方、15時から23時までが二番方、23時から翌朝7時までが三番方で、月曜日から土曜日までを一単位として、、三番方、二番方、一番方の順に実施される勤務形態です。万字炭坑は国鉄岩見沢駅を始点とした万字線の終点にある山奥の炭坑でした。沢の奥に炭坑があり、周辺は山また山でありました。山を一つ超えたところに夕張炭坑がありました。夕張炭坑は幌内炭鉱と同様北炭の炭鉱で、幌内炭鉱が火力発電や暖房用の燃料炭を、夕張炭坑は製鉄などに使用される原料炭を産出していました。ちなみに大学3年の夏休みに生まれて初めて北海道に行き、夕張炭坑で実習したことがあります。昭和32年3月、三笠市で生まれた矢口ノブ子と結婚し、山の中腹にあった社宅で所帯を持ちました。
 万字炭鉱では生涯忘れることのできない苦難の思い出が沢山ありました。

・ケーブル盗難事件
 二番方の勤務のとき坑外の見回りをしていました。黄昏時でまだ空は明るかった頃、資材置き場に置いてあったケーブルをまさかりで切断しようといてる男を発見、逃げようとしているのを追いかけて、一旦はつかまえたましたが男は私を殴りつけて逃走してしまいました。当時の私は162センチ52キロというひ弱な体格で、足は速かったが格闘技などは一度もしたことがありません。凶器を持っている男に一人で向かっていくのは無謀なことであったと後では思いましたが、そのときは夢中で追いかけました。ケーブルは坑内に三相3000ボルトの電力を供給するためのもので、絶縁した3本の銅線のケーブルを鉛の管で覆い、さらにその外部に鋼帯を巻いた直径が4センチ程度のもので、長さは100メートルのものが多かった。炭坑では坑道が常に延長されていくため電力ケーブルの布設や撤去が常時行われるのです。一度坑内から撤去されたケーブルは坑外の資材置き場に大きな8の字状に置かれて次の出番を待つのです。1メートル当たり数キログラムとかなりの重量がありました。当時の日本はまだ物資が不足しており、銅や鉛は高価なものであったのでケーブルの盗難はしばしば起こっていました。

・変電所火災事件
 万字炭坑の事務所から徒歩で5分くらい離れた小高い所に変電所がありました。この変電所は6万ボルトの送電線から受電した電気を3千ボルトに下げて坑内外に配電していました。坑外の従業員住宅や病院もこの変電所から電気を供給していました。二番方も終わろうとしていたとき、坑外の電気係の詰所に居た私に変電所当番から火災中であるとの電話がありました。キャップランプをつけて真っ暗い道を急いでかけつけたところ、変電所の配電盤は火の海で手の施しようもない状態でありました。老齢の変電所当番はただ呆然と立ちつくしていました。私は考えることもせず変電所の入り口にあった消火器を持ち、配電盤の後ろの火の海のところに接近し消火器の栓を抜いて油入遮断機めがけて噴射しました。火災は遮断機の油に火がついたものであったため一瞬にして消火させることができました。遮断機には3千ボルトの電気が供給されていたままであったので、もし誤って配線に触れていたら感電死するところでした。終わってからぞっとするような事件でありました。消火器を触ったこともなく、使用したのは初めてでした。原因は遮断機から屋外にむけて布設されているケーブルと、屋外の配電線が接続されているところが上向きになっていたため、屋外の電線に降った雨がケーブル内に浸透し、絶縁破壊を起こしてショートし遮断機に過大な電流が流れたため、遮断機の油に着火して炎上したものでした。誤った工事による人為的なミスによるものでした。翌年の3月、従業員クラブで行われた私の結婚披露宴で祝辞を述べられた早坂副鉱長は、この火災事件について述べられ、私を勇気ある功労者として讃えてくれました。冷静に考えたらとても消火などできる状態ではなかったのですが、随分向こう見ずなことをしたものだと思っております。

・坑内火災事件
 二番方も終わろうとしていたとき、坑外の電気係の詰所に居た私に切羽(石炭を採掘している現場)で火災が発生したとの電話がありました。斜坑を700メートル程降り、現場に到着した。切羽に布設されているチェーンコンベアの50馬力の電動機のケーブルが天盤の石に押しつぶされたされた結果、500ボルトを給電していたケーブルがショートしてメタンガスに着火したものでした。消化器を持ち出し消火しようとしましたが火は既に石炭採掘跡の石炭に着火し、一旦は消えたように見えても、ある程度メタンガスがたまると採掘跡の残り火でガスに着火して爆発するという有様でした。何度か消火を試みたましたが着火して吹き出した炎にまつげが焦がされてしまい、身の危険を感じて現場を撤退しました。200メートルにもおよぶ切羽に着いた火は消しようがなく、鉱長の判断でこの切羽を水没させることになりました。人的事故はありませんでしたが、数億円の損害と聞かされました。メタンガスは、その濃度が5%から15%であればガス爆発を引き起こし、ひいては炭塵爆発になり、坑内に入っていた私を含めて、多数の作業者が死亡したいたであろう思われます。幸いメタンガス濃度が濃かったためガス燃焼となって命拾いしました。万字炭鉱の切羽は天井までの高さが90センチと低く、人間は立って作業ができない上、天盤は柔らかい岩石という悪条件の現場でした。私は毎日一度は点検のため現場を訪れていましたが、コンベアは毎日移設されるため電動機も常に過酷な条件に置かれていました。事故の当事者として札幌鉱山保安監督局員から事情聴取されたましたが、不可抗力ということでお咎めはありませんでした。ただし当時使用していたケーブルが防爆用でなかったため、その後の切羽の電気設備には防爆ケーブルが用いられるようになりました。防爆ケーブルとは内蔵されている3本の導体線をそれぞれ絶縁した上に接地につながった網線で覆ったもので、圧力がかかって線間ショートが起こる前に接地線に電流が流れ、これを検知して電源を遮断できるものです。学生時代に電気学会に入会し、卒業後も会費を払っていましたので電気学会誌は毎月読んで居りました。この電気学会誌に防爆ケーブルの記事が掲載されたことがありましたので、防爆ケーブルに交換するよう、上司に進言したことがありましたが、若造の意見を取り上げてはくれませんでした。切羽にあるモーターだけでも防爆ケーブルに交換しておけば数十万円程度の出費で済み、数億円の損害を被らなかったものと思われます。生産第一主義で安全を軽視するのは昔も現代も変わらないように思えます。

・坑内出水事件
 万字炭鉱は切羽条件も悪く、その上出水事故も多く起こりました。ある日大きな出水があり、各所に定置していた排水ポンプでは排水し切れなくなりました。そこで斜坑につり下げられたトロッコの台車に、100馬力の排水ポンプと3000ボルトで駆動する電動機を置き、排水しながら台車を下げていくという作戦でがたてられました。問題は排水ポンプの制御装置で完全自動化を目指した最新のものでありましたが、制御回路が複雑でトラブルが多く、まだ試運転程度の運転しかしていないものでした。当時はメーカーの技術者が少なく、メーカーの所在地が九州であったこともあって、納入後現場に修理に来てくれることはなかったのです。このままでは坑内が水没し億単位の損害となり閉山になってしまいます。絶対に失敗は許されません。そこで私は複雑な制御回路を取り除き単純な回路に変えようと提案しました。当然その作業は新米の私が担当することになりました。ベテランの電工さんは制御回路が苦手であったからでもあります。私は不眠不休で制御回路の配線を変更し、試運転に間に合わせることができました。家に帰ったのは三日後でした。制御回路の方式はシーケンス制御という方式でしたが、大学では全く習ったことが無く、参考書もありませんでした。しかし電気回路は得意で、電気学会が出版した「電気回路学」をほぼ暗記していたので、制御盤の回路は全て理解でき、一人で苦心惨憺でしたが無事修復できました。

 楽しいことの少なかった万字炭鉱でしたが、電子回路をいじるのが好きでしたので、当時出始めたテレビを組み立てたり、坑内の斜坑のトロッコに連絡用に利用する無線機を修理したりするのが楽しみでした。テレビの組み立てパーツは札幌にある大阪屋まで買いに行きました。長男の淳は昭和33年万字炭山で生まれました。

 昭和35年6月、事故続きであった万字炭山が親会社である北炭から切り離されることになり、希望退職者を募りました。上司からは退職しないで北炭の他の炭鉱に移ってくれと言われましたが、弟が亡くなって男一人となったこともあって、故郷の秋田に帰ることにしました。通常の倍の退職金と一年分の石炭を頂いた上、貨車一両を借り切ってくれ、惜しまれながら帰郷しました。恩師の能登文敏教授(当時助教授)に手紙を出して就職を頼みましたが直ぐにはないが考えておいてくれるとのことでした。家内の両親は、娘を遠い秋田に定住させることを悲しみましたが、一年に一回は北海道に帰省させることで許して貰いました。この約束は、家内が亡くなる前年までの48年の間守りました。
(June 23,2015 成田裕一