花岡工業高校
秋田に帰りましたが仕事が無く、恩師の故赤木久米男教授の紹介で昭和35年8月、秋田県立花岡工業高等学校(現在の大館工業高校)の電気科の講師をさせて頂きました。採用されるに当たって、秋田県庁の高校教育の担当者から面接に来るように言われました。担当者の「現場の経験はありますか」との質問に「6年も炭鉱の現場で勤務しました」と、胸を張って答えたのですが、担当者曰わく、「教員として教育現場の経験がありますか」と言われてしまいました。花岡工業高校に赴任しましたが、給料は1万4千800円で水道、光熱費は有料でした。ちなみに、炭鉱時代の給料は3万円から残業の多いときは5万円にもなり、その上光熱水道料はただ同然でした。赤木先生こんな給料では食べていけませんとこぼしたことがあり、赤木先生に納豆だけ食べても生きていけると諫められたこともありました。また、与えられた住宅には風呂がなく、ドラム缶の五右衛門風呂を用意しました。教員免許は持っていませんでしたので、早速法政大学で教職に関する通信教育を受けることにしました。当時は教員制度が厳しく、電気科の教諭になるためにも教育心理など一般教育の教諭と同じ資格が必要でした。電気関係の仕事をした経験など何の評価にも値しないという制度でした。法政大学の通信教育課程に入学し、教諭になるために必要な20単位以上の科目を履修し、一年間で全単位を取得しました。花岡には同和鉱業花岡鉱山があり、従姉妹(父の兄の長女)のご主人が花岡鉱山の幹部をされていましたので、ときどきお風呂を使わせて頂きました。当時の金属鉱山は景気が良く、従姉妹のご主人から、給料の安い臨時講師を辞めて鉱山に就職したらと勧められたこともありました。電気科の職員室に机を与えられましたが、先生方の机にはその先生が担当している教科書が何冊か置いているだけでした。実業高校なので進学指導もなく、部活を担当していない先生は、授業のないときには何もされていないようでした。私は授業のないとき手作りの測定器を作り、生徒との実験に活用しました。一年後、能登文敏教授はじめ母校恩師の好意で秋田大学の助手に採用されることになり、一年足らずで花岡工業高校を退職しました。短い勤務でしたが沢山の測定器を手作り、若い生徒と学んだことは楽しい思い出でした。
(Oct. 19,2011
成田裕一
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