ふでのまにまに 第10巻 Date: 20121011 page 1

R.No
表題
本文
0082
あかがね1
132
あかがね□赤銅《アカガネ》のから名は、蜀山居士〔事物異名〕、黄鉄〔名物法言〕、丹陽〔名薬爾雅〕云々、また、自然銅あり、そがから名は、金山力士〔薬譜〕、金力士〔事物異名〕、散佐里〔郷薬本薬〕云々、そもそも此|真銅《アカガネ》は天武天皇ノ御代二年といふとし、因幡周防ノ両国《クニ》よりその銅鉱《アカガネ》を貢《タテマツ》り、また、元明天皇ノ御代に、武蔵ノ国《クニ》より真銅《アカカネ》を慶雲五(七〇八)年に奉りしかば、としの名かはりて和銅元年といへり。『本草啓蒙』、金石ノ部に、今世ニ銅の出処、摂州多田、奥州南部、仙台、羽州秋田、最上、越前、肥前、予州、日州、備中、濃州其外諸州より出、大抵、四十八箇国ほどなり。越前を上品とす。
0083
あかがね2
133
集解、銅を以て造作者多し。時珍の説に、白銅出二雲南ニ一、青銅出二南番ニ一と此レは自然のもの也。舶来なし云々」と見へたり。礦石《アカカネ》をまぶ石といふところあり。なめては、これをノ《ハク》といふ。同書に、銅礦石、あかゞねのあらかね、はくいし、金星有りて、紫色に光りあるを、べにばくと云ふ。青キ光あるを、とかけばくといふ。みな上品なり。黄色にして光あるを黄ばくと云ひ、叉、なたねばくともいふ。これ下品なり。色のあさきを、さうでむはくといふ。上品の銅礦を鎔化してとりし銅よりは、銀多くでツ゛。下品の銅鉱よりとりたるには銀少し。銅の長サ二尺半許、幅五六寸に、ひらたくしたるを平銅と云ふ。天工開物に謂ゆる、方長板銅なり云々」と見へたり。
0084
あかがね3
133
ノの名、石液《ヤニ》の名、その坑《シキ》、山々にて方言《カハリ》ある事也。此|真礦《マブイシ》を砕《クダ》クをからむといふ。その砕《カラ》も女ども鉄追《ツチ》もて其|真福石《マブイシ》をうちうち唄うたふ。これを、石からみぶしとて、山々にうたふを、人になうめでて聞けり。そのからみたる石を焼く、その真福石を覆《オホ》ふを、輪屋《ワヤ》といふ。上舎《ウハヤ》てふ事とおもへばみなその形《サマ》の両下おろしに作りなして、両下《マヤ》のごとし。こは両下を輪屋《ワヤ》とや訛《イヘ》らんかし。此焼釜に真鉱《イシ》を入レて、三十日斗リも燃《ヤク》く也。
0085
あかがね4
133
此のかねやく匂ひ、うるさくたえがたき事にて、鉛坑《ナマリヤマ》などの焼釜《ヤキガマ》の烟《ケムリ》にあたるもの命短キよしを云へり。真礦《アカガネ》を燃《ヤク》に、其の釜ごとに張木とて、こゝらの木を積《ツ》み大炭《オオスミ》とて炭《スミ》いたく籠《コメ》おき、また衣とて稻藁《イナワラ》を覆ひ着《カク》る也。衣は、いなはらをはじめ、萱《カヤ》、蕨柴《ワラヒノホタ》を苅れど、塵塚《チリツカ》に捨てたるもの、わきて穢《ケガ》れたるもの、産舎《ウフヤ》にしげるわら、また、葬式《ホフリ》に用ひ捨たるわらにてまれ、筵《ムシロ》にてまれ、それを衣にとり覆うふを、山々の吉例《ヨロコビ》にて、金|良《ヨク》、出制《ウマル》といへり。
0086
あかがね5
134
其焼釜の口より風を入ルる。その風を呼ぶにさまざまの風のよびやうあり。その名を、はな嵐といふ也。そは惣輪嵐、直嵐、両嵐、鳥足嵐、轡嵐のたぐひ也。また釜の名は、その数多し。旭釜、大旭、下旭、部月《フツキ》〔歩付なり〕、見立釜、彦釜、新釜、重《カサネ》釜、五月《サツキ》釜、東シ釜、直有《ナホリ》釜、二月釜、横釜、新横釜、二ッ釜、三月釜、新栄活《シナホリ》釜、古狢《フルムチナ》釜、末広釜、新狢、上ハ荻《ヲキ》、中カ荻、正月釜、廿一釜、新ン重ネ、幸釜也。此一釜にノ石を四百八十|泉《メ》あまりを入て焼といへど、さだかなることはえしらざるなり。
0132
みちのく黄金山1の2
44
みちのくやま□てむひやう二一(七四九)年といふとしのきさらぎはかり、陸奧守|百済王《クタラノコニギシ》敬福がしれる小田なる山よりくがねほりうるを、大|朝帝《ミカト》にたてまつりしを、中納言大伴家持ノ郷〔『万葉集』十八ノ巻〕よめる長歌あり。また、須売|呂伎能御代佐可延牟等阿頭麻奈流美知能久夜麻爾金花佐久《ロキノミヨサカエムトアツマナルミチノクヤマニクガネハナサク》と産《イデ》たる山の黄金めで尊《タト》みてよめるうた也、みちのくにて女郎花をこがね花といへる処あり。
0133
みちのく黄金山1の3
44
此金花山といふ嶋山こそみちのく山と詠《ヨメ》る山ならめと人もはらいへれど、おのれみちのくに在りけるころ、ふるき金掘等に問へば、そのいらへに今もむかしもかゝる山に黄金のありし処にあらず。むかし公の仰にて、人あまた渡りてその嶋を見めぐりて●りさふらひしが、光る砂石《マサコ》なンどを素人《ヒト》かねありとていつのころよりか金花山とは名もおへるものかといへり。うべも小田なる山とこそ聞えつれ、小田なる嶋にこがねほりと聞えざりき。おのれ此物語り聞しより、さらばみちのく山とさしていへるるはいずこの山ならむと、
0134
みちのく黄金山1の4
45
みちのくのくぬちことごと分めぐりておもふに、みちのくとはおしなべて金ある陸奥ノ山といへるにやとおもひつゝ、おなじみちのくの津軽路《ツカロヂ》に至りてなほ此山をたづねめぐるに、耕田山《カウダヤマ》とて岩木ノ嶽に並びたる大嶽あり。其山には櫛形小河嶺《クシカタコガネ》なンどなにくれかにくれと名だたる八峯あれば八ツ耕田山なども呼びなす山也。またそこにいと近き乙部《オッブ》といふ竅場《カナヤマ》あれば、詩家好《カラウタスケ》る人とらは耕田を甲田に書もて乙部におしなべて甲乙の山になずらへいへる也。
0123
みちのく黄金山2
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耕田ノ嶽に登らむ此十曲の麓よりはいといとやすげにぞ見えたる。また津軽の方タよりはさかしく峙て、麓は木々ふかくなから登れば女竹《ナユタケ》茂りも分やすからぬ山也。おのれ此山になから過て登りし事あり。渓水を渡れば氷のごとくみな月寒し。山沢の水の中に金研臼《カネスリウス》といふもの大石小石にて作りたるがいくつとなくまろびあひ埋れたり。これを見てもそのいにしへ黄金掘りし山にはうたがふべくもあらじ。耕田《クワウダ》は小田《コウダ》の訛にて小田《ヲタ》なる山にこそあらめ。またみちのく山ともいひし山ならむかし。またひむがしふもとに入内《ニフナイ》(青森市)といへる村あり。
0124
みちのく黄金山3
48
青森のみなとに近し。此入内〔古(モト)入内は蝦夷語也。それを文字に作る也〕の村に古キ観世音の堂あり。もとも秘仏にしてむかしより拝み奉りしといふ人なし。ある人ひそかにくらがりにて此 御室《ミムロ》の内をさぐり見つれば、此観音はさらに仏形にはあらじ。金塊《カナカラミ》なンど如きものにや。其重さはかりもしらじといへり。堂は辻堂のごときさゝやかの堂ながら、なかむかしまでは小金山華福寺とて大寺也。号《ナ》は今もしか唱ふ也。また金《カネ》浜〔はまとは川原などをもはら方言なり〕また小金沢などいふ山沢の字《ナ》あり。また近きわたりに吾妻が嶽といふ山あり。こは吾妻なるみちのく山のよしにや。
0131
みちのく黄金山4
48
これをおもへば小金山花福寺は百済《クダラ》の敬福が建し寺にて、黄金《コカネ》山敬福寺を方言《ナマリ》称なへ伝へて今にしか文字かくもうつしたらむか。又観音のいと重く仏形ならぬといへるは、自然金乱ノ糸金なンど云ひておのづから化《ナ》り出る産金《ウブガネ》あれば、そのこがねなンどを神とも仏とも斎《マツ》る事あれば、こゝにもいにしへ人のいつき奉りしものならんか。それを考《オモ》へば此観音といふは黄金山神社にこそあらめ。小田なる嶋ともあらば海中《オキ》なる金花山をこがね山ともさだめてむものか。小田 有《ナル》山がいにしへの言両《コトワケ》、今云う耕田ノ嶽なる事いちじろし。
0157
滝ノ下鉱泉の1
192
是《コ》は湯香●またの不動明王堂の縁起を記禄《シルシ》たるとき、考うる一くだり也。そを此処にのせたり。出羽ノ国秋田ノ郡新城荘湯香ノ股〔今湯ケ胯といへる地也〕村に滝あり。阿遮羅明王鎮座《マセリ》。その寺を滝本山不動院といふ。いにしへより温濤《イテユ》ところところに湧出て、病客《ヤマフド》多く群衆《ムレキタ》りて、入浴《ユカハアミ》せし山里也。弘仁天長(八一〇〜八三四)の頃ならむか、円仁大徳、奥羽《ミチノクデハ》すぎやうのとき、大徳、此温泉に沐浴《ユアミ》し、身もきよまはりて、御像三寸斗《ミタケミキ》リなる大聖不動明王を一刀三礼して刻《ツクリ》たて、さゝやかなる堂を巌《イワ》の上に建て礼拝《キヤビ》ぬかずき給ひし処となもいへる。
0158
滝ノ下鉱泉の2
193
此出羽国は延長天慶(923〜947)のころの大地動にふられて山々崩れ谷ども埋もれはてゝ温泉《テユ》もいにしへざまにはあらざるべし。今は水混て半暖半寒に涌化りて、近き世となりては湯斛《フロ》ゆげたに造リて、少熱湯《ヌルユ》を汲み入れて、煎湯浴《ワカシユ》なれど、痿躄《アシナヘ》、脚気《アシノケ》、疝気《アタユマヒ》、●●《カタハラ》、淋病《シハユバリ》なンど愈《イユ》事多し。此不動明王も雨風雪のために、いくたびとなく荒頽《アバレ》て、御正体《カムザネ》も朽《クチ》はて給はむ事を恐《カシコミ》て、享保二(一七一七)年酉丁八月、かの慈覚円仁大師の昨リ給ひしといふ不動尊の霊《ミカタ》は、いといとさゝやかなれば、久保田仏工喜平治恒信〔中通町の
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滝ノ下鉱泉の3
193
〔中通町の良工なり〕と云ひて名誉の工《タクミ》あれば、此ノ仏工に、明王の尊像《カタ》を作らせ、三寸《ミキ》の尊像を此度《コノタヒ》作れる尊像《ミカタ》の腹内尊像《ミハラゴモリ》に造り秘蔵《ヒメ》奉る也。北秋田郡笹岡村(秋田市)宇佐美正介源正安、御堂清浄《キヨラカ》に作り寄付《タテ》てこの文化十四(一八一七)年丁丑五月九日、不動尊を遷《ウツ》しすゑまつれる也。此 温泉入浴《イテユユアミ》する人とらのみなそれぞれに験《シルシ》をうることも尊《タト》き明王《カミ》の霊徳《ミタマノフユ》ならむ事を恐《カシコ》み、再礼《キヤビ》奉るべし。此山の子《キタ》の方に、一ノ沢、二ノ沢、三ノ沢とて、山また山々いや重りぬ。
0135
舎利石1
130
しやりまさこ□世にしやりいしといふもの多し。予《オノレ》拾ひし処は、南部の鵜翦《ウソレ》山の湖の辺、舎利浜のあたり也。此しやりは、色黒く照りて、内にものあり。いといと細にして粟粒のごとし。また同南部の脇野沢(下北郡脇野沢村)の浦近き木波の礒の白舎理、是《コ》は真白にして雪のごとし。また泊リの浦山にも、舎利あり。舎利母石あり。津軽の外浜《ソトカハマ》の●袰月《ホロヅキ》の地蔵前への舎利石、こは能《ヨク》人知れり。はなれ磯《ソ》のごとき小嶋あり。其小島の東面《ヒムガシオモテ》の岩に舎利母石ありて、それより、生《ウミ》おつるを、波のうちあくるなり。
0136
舎利石2
130
むかし空あれて、舎利の国々に零し事ありといふ。其舎利のさま、津軽の母袋月《ホロツキ》〔ほろづきは夷言にして大盃にして大盞?の事也、沖に盃に似たる岩あるをいふなり〕(東津軽郡今別町)の舎利に似たりといへり。其時の人、戯歌をよめる「おしやりさまふらしやりますとおしやります出《デ》しやしやりましてひろはしやりませ」。石弩のふりし事、『三代実録』四十六巻元慶八年にも見えたれば、舎利も零《フリ》しにや、またおなし津刈の雨生《アンニフ》の坂といふところにて舎利廿粒ばかり拾ひしことあり。此地《ここ》は舎利などありしといふ人しもあらねど、しばし休らひ、砂かい分れば、一二《ヒトツフタツ》の舎利を得す人々もけふを始めに拾ひしといふ。
0137
舎利石3
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さればいづこにも、いづこもありけるものにて、みな真砂《マサゴ》のたぐひ也。小野蘭山の誌《カケ》る『本草綱目啓蒙』ノ四ノ巻宝石のくだりに、津軽舎利の種類」といへる条《トコロ》に云、津軽舎利は奥州津軽今別母袋月の海中に、舎利オや(ママ)といふ石あり、瑪瑙の類なり。舎利これより生出して遍体につく、その形円小にして透明なり。その色白或は黄白、或は紅色或は斑駁数種あり。波にゆられて海底に堕るもの、又波にて磯辺へうち揚るを拾ひ得て蓄蔵すれば、年を経て子を生ず。即瑪瑙の花なり。
0138
舎利石4
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仏家舎利塔中に収むるもの多はこれなり。又宝石のこと天工開物に詳なり。その玖瑰といふは津軽舎利の事也。他書に●瑰といふは赤キ玉の事也。はまなすを玖瑰花と云ふも、実の色赤玉の如キを以て名ク。真の宝石は坑井中よりとり出スといふ。種類多く五色共に数名あり。典籍便覧及輟耕録に詳なり。舶来に葡萄石といふものあり。是、物理小識の蜻●頭なり。津軽舎利の類にして大サ葡萄顆《ブダウノミ》の如し、故に名く、今別の海辺のつがる石も葡萄石の類にして即瑪瑙なり。又宝石の一種にサクロ石といふあり。又ジヤクロ砂ととも云ふ。これは紅毛より来る。その形|安石榴《ザクロ》の子の如く色赤シ。
0139
舎利石5
131
又黒を帯ルもあり。盆玩に用ひて最美麗なり。此即集解の石榴子なり。然レとも硝子《ビイドロ》にて偽ルもの多く真物は稀なり。奥州舎利浜、総州銚子口、及蝦夷等に蛮産に似て下品なるものあり。又舶来にトンボウ玉といふあり。これは黄白色にして正中に猫晴の如き点あり。是集解の猫晴石なり。又淡青色の硝子にてヲシメの如きものをこしらへ桜花の画あるあり、俗にクスリ玉といふ。これをトンボ玉といふは非なり。是蛮人の衣服の鈕釦《ボタン》なり。猫晴石のことは典籍便覧物理小識に詳なり、
0140
舎利石6
131
物理小識曰、宝石ハ蔵ニ璞中ニ−有下生ニ水中ニ−者上、中●ニ活光一●煮酒ヲ一者ヲ、曰二猫晴一、大者ハ虎晴光●閃鑠、亦有ニ菫青湖水色黒色−、其無ヲ二活光一曰二裸子蜻●頭走水石ト一。「集解」は宝石の碧色なるものを云う。奥州松前より出ス。ムシノスといふものこれに似たれとも別なり。ムシノスは奥州の方言アヲダマ、又松前ダマとも云う。皆練ものなり。然ども真物すくなし云々と見へたり。花形のトンボを蛮人の衣服の鈕釦といへるは、いさゝかたがへり。桜花形《ハナタ》は、トンボの制にして大小数品あり。其玉欠ても、花形のあらはるゝ事、能代より産《イツ》る。三平二満飴《オタフクアメ》のごとし。紅毛の鈕釦は品いと多し。金銀、また鏡に制《ツクリ》たるもありき。
0044
阿仁鉱山8の1やまたから
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やまたから 出羽秋田郡大阿仁風張郷[今云ふ吉田村也](阿仁町吉田)に近く三梨[一帯三子の梨菓むかしありしよしの名今は水無しとす]村に二戸あり。天正の始め頓《トン》源五といふ、後に高田源五郎といへり。其|後《スヱ》なほあるなり。また一戸を梅村久左衛門といふ。四五代経て梅村市兵衛などみな長寿の家也。一二代目の梅村市兵衛あり、そのころもまた此二戸といへり。また向銀山のそもそも明応文亀(一四九二〜一五〇四)を山口として天正(一五七三〜九二)の頃はまでも盛り也。明応、文亀の栄活《ナホリ》といふは一日に百八拾貫|泉《メ》の白銀《シロカネ》を産《イタ》し、天正のころには大に劣りて中絶たり。
0045
阿仁鉱山8の2やまたから
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また慶長、元和(一五九七〜一六二四)ころは一日に十四貫八百|零《メ》を堀り得し、是を此山の大直りと呼べり。享保十九(一七三四)年に山つき崩れ竅場潰《カナヤマツフ》れたりといへり。向銀山盛りのころは家千余戸ありしとなむ。誰が作りしか山宝といふ謡あり。やまたから、そもそも此出羽の国と申スは山高して海近く谷深くして浦浦の名処さまざま多しといへども、それが中にも此銀山山と申スは左右《サウ》に金銀の山々崎へ前には天下清水の流を汲み人の心もきよらかに繁栄の霊地也。人家千戸の軒をつらねて万民のけぶりゆたか也。

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